いつか天国に行っても

今まで本当にありがとうございました

哀と愛

ふと気になって自分の最初のブログ(https://inunonitijyou.hatenablog.com/entry/2018/02/16/234419)を読んでみました。

Twitterのフォロワーに影響されて始めてみたんだそうです。

えぇ今でもちゃんと覚えています。

記憶って案外鮮明なものなんですね。

いや、それとも僕にとっては紛れもない光だったからなのかもしれないけれど。

当時はありえないくらいの鬱で日々苦しんでいた(現在では頻度も落ち着き回復傾向です)と記憶しています。

そんな中、自分の心と向き合いながら毎日を明るくしていこうとする某氏のブログに心動かされたのがきっかけでした(某氏のブログを読み直しましたが明るい話題が少ない!!!)。

僕は結局ダラダラと4年間もアカウントを変え、掲載媒体を変え日記のように綴っているわけですがいわゆる愚痴のようなものばかりだなと再認識しています。

 

果たしてそれで本当にいいのか?

 

まあそれでもいいんでしょう。結局僕のブログは他人に見せるようなものでもなんでもなく、自分の思考整理のためにしているところが大きいので。

ただなんだかんだ愚痴を吐きながらも続けていこうと思います。

「こんな人間でも、死にそうになりながらも生きながらえているんだぞ」

と悩んでいる誰かを救えるように。

 

別に自死は悪いことじゃありません。推奨しているわけではないですがその選択肢だって選んでいいはずです。

でもまだ楽しいことはいっぱいあるだろうし、素敵な出会いも沢山あるんだってことは伝えたいです。

僕も昔は「楽しいことがあろうがなかろうが今死にてえんだから関係ないだろ」とか思ってたこともあります。

でも、それでも楽しいことはいっぱいあったし素敵な出会いも沢山ありました。

人生って案外しょうもないもので幸不幸のバランスが均等になるように流れていくものだと思っています。

とびきり不幸なことがあってもそれと同じくらいの幸もあります。

それが大きな1つなのか小さな複数のものなのかはわかりませんがきっと立ち直れるくらいにはあります。

 

某氏の話に戻りますが、非常に懇意な関係だったと自分では思っています。たかが1年なのですがされど1年でもあります。

生活に困窮していた某氏になけなしの小遣いを叩いてお米を買ったこともありました。

たぶん彼氏彼女という関係であったならそこまで不思議ではないのかもしれないのですが、別にそうじゃない。

じゃあ何がそこまで自分を動かしたのかと今考えてみることにします。

それはたぶん人間としての尊敬と恋愛感情抜きの愛であったのでしょう。

その尊敬はインプリンティングされた雛鳥のようなものであったのかもしれませんがそんなことどうだっていいのです。

 

某氏が筆を折ることになったきっかけも、もはや細部は思い出せなくなって来ているのですがそれが悲しくもあり、自分の成長なのだと感じることもあり。

 

僕もそろそろ縛られるのは辞めて、次は迷える誰かを救う側に立つ時期なのかなと思います。

 

タツの電源コードを首に巻いている貴方も

抜き身の刃で手を切る貴方も

咳止め薬を過剰摂取する貴方も

 

そうやって悩んでいる人間を僕は救いたいと思っています。

このちっぽけな人の身で他人の人生を変えたり救うことが出来ないのは重々承知なのです。

ですが手遅れになる前に救いたいです。今度こそ

 

 

 

 

痛々しい人間だなとつくづく思いますが、これが本当の本当に心から出た魂の言葉なんだなと思っています。

 

 

 

 

またどこかでお会いしましょう

 

 

 

学歴は飾りなのか?

学歴は飾り 人生そんなものなくても充実させられる

 

よく聞くわ。そういうこと。

ついつい僕も言っちゃうセリフ。これ正しいんだろうか。

 

ちょっと考えてみたいと思う。

 

学歴は飾り とは

 

  • 誰が言うのか

十中八九、人生で何かしら失敗してるやつ。学歴コンプレックスに多い。

 

  • どんな時に言うのか

他人から生活を心配される時、もしくは従来の日本型ではない労働方法をとる時‥‥など

 

なんかもうこの時点で言い訳に見える。

高学歴でこの言葉を発してるやつ、正直見たことない‥‥。

彼らはそのまま安泰な生活を送れるからかもしれないけど(最近はちょっと違うらしい)

 

中卒、高卒がベンチャー企業に就職する時によく聞く。

共通する事項として目がギラギラしている。

能力がない。

 

 

 

だって成功している〇〇さんがオンラインサロンで言ってたもん!

 

 

 

 

 

 

 

 

世に出回る書籍、オンラインサロン、自己啓発はほぼ全てに生存バイアスがかかっている。

流石にこれを知らないでそのセリフ言ってんならヤバいぜ。

 

確かに自分に自信がなかったりアピール出来ない人たちにとって自己啓発はプラスになる。

確かに古い日本の価値観に囚われた人生を送っている人がオンラインサロンで目を覚ますことはある。

 

ただ、それを"自分が得た真理"として流布するのはやめた方がいい。

 

僕は優しくないから言っちゃけど、それすげぇバカに見えるよ

 

恐らく"学歴は飾り"という言葉にも成功している人間のバイアスがかかっている。

いや恐らくなんかじゃねぇか。

ちょっと想像したら分かるでしょ、学歴がない人間がどれほど苦しい生活をしているのか。

 

日本はまだまだ学歴至上主義なんだから学歴はあった方がいいの。

 

飾りなんかじゃ一切ない

 

 

 

 

 

※あとこれはちょっとズレるんだけど「何が幸せか」だったり「どんな生き方がカッコイイか」だったり「どんな自分になりたいか」は出来る限り色んな思想を知って自分で考える方がいいよ。

僕が嫌いだから槍玉に上げちゃうけども〇〇の習慣とか〇〇ラー心理学とか。それそのままを頭にコピーすると、たぶん世界にはそういう人間が山ほどいるわけでカテゴライズされてしまう。

せっかく人間生きてるんだからオンリーワン目指さないか?

"幸せになりたいから〇〇する"

これはカントで言う仮言命法

それから得られるものは真の道徳的行為ではない不健全な幸せ。

 

最近深く学んだので使ってみたかっただけ。

戯言だし聞き流していい。

 

 

 

 

脳くい虫

僕は書きたいことが纏まらない時は散歩することにしています。

最近は老化が酷く散歩中に纏めたものと、思いついたものを家に着くと全て忘れてしまっています。

何かの病気なのかと思いました。

元々僕は一度記憶したものはほとんど忘れない体質だったのですが、確か高校一年生、塞ぎ込んで外の世界をシャットアウトした時期からモノを全く覚えていられないようになったと記憶しています。

結局それは高校在学中はおろか今でも治っていません。

モノを覚えられなくなったことを最初は「あるべき知識があるべきタンスに整理された」のかと考えていましたが、そのタンスの取っ手が全て何処かに消えてしまっている事態に気づきアタフタしたことを覚えています。

ここまで2回記憶に関連した語尾を使用しましたが本当にそれが正しい記憶なのか断言できません。

歳を重ねる度に自分が薄れています。

元々自分が何者なのかすらわからなかったのに今ではそれを考えることすらできなくなっています。

インターネットにおいて感情でコミュニケーションをとることで思考能力を奪われ、生気だけ孕んだオートマタが出来上がりました。

さながら"哲学的ゾンビ"です。

ここでひとつ疑問に思ったのですが、「自分が哲学的ゾンビだと発想してしまった存在は何者なんでしょうか?」

今の僕にはしたいことも無く、気力も、継続させる気もありません。

自分はどうしたい。なんて考えても「よくわかりません」としか言えないです。

完全に自分を見失っているどころか人間としての最低限の機能すら失っている気がします。クオリアがないんです。

かろうじて視覚は機能していると思います。

目から入ってくる情報に手が勝手に反応してる感じです。

意識はインターネット空間に新たに作られた集合的無意識に取り込まれてしまいました。本来の場所には戻ることができません。

何も考えずに文章を書く」なんてことは学生時代にはありえないと思っていましたが案外簡単に出来るんですよね。

ここに書いている内容を思索したことなんてありません。何を書いてるのかも怪しいです。

ですけどそれが文章としての体を保っているのなら、それが「僕が一番わかってほしい」ことなのかもしれないですよね。

僕はいったい誰なんだ。誰か教えてほしい。

人生なんとかなると思ってこれまで適当に生きてきたんだけど、どうにもならないどうすることもできない袋小路っていうものが存在することを知った。

身動きが取れない、どうすればいいか思いつかない。他に手段がほんとにない時人って考えるのをやめちゃって無感情になる。

こういう時頼るところって心を許してる人だったりするはずなんだけど肝心の頼ることの出来る人とギクシャクしてるせいで行き場のなくなった焦燥感と絶望とちょっとの期待が胸の内を真っ黒にしてる。

もうSNSにさえ八つ当たりできなくなった感情を誰が見るのかも分からないブログに書き綴ることになるとは思ってもなかった。

自分の感情がどうしてもコントロールできない。一番大切に思ってるはずの人に対して何故か怒りが湧いてくる。

正直解決方法なんか指で数えられるくらいしかないと思ってる。

自分のこととインターネットのこと

禁止されるとしたくなる。

きっとみんなそう

 

今日は色々書くんですけど気持ちの整理がついてないし文章が支離滅裂になっていたら許してください。

 

 

 

 

 

僕は性善説だと思っているので人はみないい人だと思っています。元は...。

だから最後まで人を信じたいし何回もチャンスを与えてしまいます。

「これが最後のチャンス」もう何回言ったかも覚えていません。

何回「最後のチャンス」で約束したことを破られても、ほかの人に悪く言われていても信用している人だけは信じたいし守りたいと思っています。これは恋人に限った話ではないです。

よく「もっと自分を大切にした方がいいよ」と言われるのですが、僕の中では

人が幸せになること>>>自分のこと

なので自分が傷ついても相手が幸せになったり正しい道に進んでいけたらそこで満足。帳消し、どころか満足感を感じてしまいます。これが「自分を大切にしろ」と言われている原因なのは嫌も承知なんですけどなかなか変えられない。

自分が変えられないことでちょっとやそっとじゃ変わらないのはわかっているはずなのに人を助けたいと思うのは間違っているのでしょうか?

 

次に人の悪性について。

僕は人の性格、行動、発言は99%育った環境で決まると思っています。

例えば同じ「親が甘やかして育ててきた人間」でも周りの人間がわがままを叱るとそれがいけないことだと知ることができますが、周りの人間が叱らないとわがままを言ってても本人にはそれが当たり前になります。

インターネットでも同じです。インターネット、ここではSNSの話をしますが何が悪いことをした人がいたとして絶対に"絶対"に許してくれる人がいます。慰めてくれる人がいます。

その人と仲が良いから無条件に肯定してるのかも知れませんし、そもそも善悪の基準が違う人なのかもしれません。はたまた全く興味関心がない人。

無反応は「許し」でしょう?

現実における無関心、無視というのとネットの無関心は必ずしも一致しません。

冷ややかな視線とか咎める空気を感じられないというのはインターネットというものの短所だろうと思います。

誰一人として否定、批判をしないということは悪くないことなんだと思う気持ちもわかります。インターネットですら雰囲気を感じてしまう人間は稀でしょう。

仕方ないんです。

初めに書いた通り僕は性善説なのでその人は悪いと思いません。ただ悪いことを悪いと教えなかった「周りの人間」が一番悪いと思っています。

 

悪いことを教えなかった人間が悪いと人を見下しているわけです。自分が全く正しい生き方をしているかのように。

 

誰か僕を救ってくれ。

 

「ボロクソ言ってんのに何故か僕に懐かれてる」と言っていた人がいました。

その人は僕に度々「それはお前が間違ってんだよバーーーーカ」と言います。

ちゃんと僕が間違っている時はちゃんと怒ってくれます。本当にありがたいです。尊敬してるので嫌われたくないです。

 

話が逸れました。

自分の生き方とか考え方とかが歪なのは分かっているつもりなんです。でも他の人と何が違うのかわからない。教えてくれる人がいない。叱ってくれる人がいない(さっきいると言いましたが話の流れ上いないことにさせてください)。

それはたぶん何よりも悲しいことです。

 

尊敬できる人を見つけましょう。男女関係を求める場じゃないぞSNSは。出会い系を使え出会い系を。

 

ここまで書いた時親に

 

「ここ数日の間、時間が止まってるのは病気なんだから治療しなさい」

 

と言われました。

育ちがいいとか悪いとか関係なく本当に気を付けないといけないのは

「理解をしない」ってこと

という話。

 

 

p.s

一回書き終わって編集してたらデータが吹き飛びました。下書きはこまめに取りましょう。書き直したせいでちょっと内容が変わってます。不服

 

 

生きるか死ぬか

哲学

 

人はなぜ生きるのか」という問いは紀元前からのもので、それに挑んだのがゼノンやらキェルケゴールやらパスカルたち哲学者です。

 

例えばゼノンだと"積極的に人生に関与することが人生の意味である。それは働くことや、人生の欲求を満たすことも含まれる"という主張(と解釈されている)をしていました。

ただそれは自らの内の破壊的な感情、衝動、振る舞いを理性と判断によって克服するという "自律"ができることが前提です。

 

またキェルケゴールの主張だと、簡単に言えば

"人生で何を成したいのか、そしてそこにどんな意味を見出すのか"

ということになります。

 

「生きる意味」「生きる目的」(キェルケゴールの主張とほとんど同じですね)なんていうものは人によって変わりますし、それらが見つけられないという人もたくさんいます。

 

ここで言いたいのは「そもそも意味とか目的を考えながら生きる必要ある?」ってことです。

既に○○のために生きるという人はそれに命をかければいいです。

 

「生きる意味がわかんなーーい」と言っている人たちは考えれば生きる意味が見えてくるのでしょうか?まさか。

 

一旦そんな難しいことを考えるのはやめて"自分のしたいように"してみましょう。勧めるのもどうかと思いますが"多少"は人に迷惑をかけてもいいと思います。

参考程度に生きる意味が分からないと悩んでいた私が変われた考え方

 

 

 

最近自死について思うところがあります。自死は本当にいけないことなのかな、と。自分の中でモヤモヤしてて何がモヤモヤしてるのかもわかんないんですけど。"いいこと"と"悪いこと"がわからなくなっている気がする。

 

 

 

悪いことをすると関係の無い第三者が責めてくる社会とても気持ち悪いと思います。

 

ふしあわせになりたい!

こうふくなじんせいっておもしろくないとおもっているから、たとえあきらかにしあわせなみちがあってもくるしいみちをえらびたい!

 

かんなんしんく!!!

 

しあわせなじきって"じぶん"が"ふわふわ"していきてるじっかんがない!

 

"なんのためにいきてるのか"をかんがえることはじつはいみがなくて。

 

しあわせでもふしあわせでもやりたいことをたくさんやったほうがひととしてごうかくしているとおもう。

 

だから"しあわせ"でもひとじゃないやつはいる。

 

べつになにかいいたいわけじゃないけどね